History

昌平黌の歴史

昌平黌の歴史

温故知新 今こそ見つめなおしたい。
昌平黌精神と大和こころ。

建学の精神:昌平黌精神とは「大和こころ」に通じる精神
義の精神は、宏大無限であり主義主張を超越した大精神である事を諭し人論(人の道)を行わざる者は如何に高慢なる思想といえどもその目的を達することは出来ないということを戒めているものである。
昌平黌精神とは、真理に基づき、平和と繁栄の道を探索し、それをそのまま未来生活の中に実践し、開花させようと努力し続けてきた日本民族本来の「大和こころ」に通ずる精神である。

われわれは、この精神を体し、昭和41年昌平黌いわき短期大学をこの地に設立した。古くは世界史上類例のない徳川幕府(江戸時代)の学問所として、立派にその責任を果たしてきたものは、一に昌平黌精神を奉じ、献身的努力を続けてきた多くの先人の寄与であったことは、今日あまねく人々の知るところである。

明治の先覚、福沢諭吉翁も、そうした江戸時代の創始者徳川家康を目して「世界稀有の大政治家であった」と絶賛している。やがてこの精神が、明治政府による義務教育の普及につながり、国内に一人の文盲もなからしめるため、今日の教育制度の前身である学制設定となり、昌平黌は東京大学、或いは学習院など多くの学舎の出現を見ることになったのも事実である。

このような過程を経て日本の教育は益々向上して、主義主張を超越した学校教育が国民の間に定着し、その名も「尋常小学校」と称せられた。この尋常という二文字を義務教育の根幹に置いたことによって大きな意義があるので、平和第一主義を以ってどこまでも人間として基礎的知識と道徳心を基調とする教育を修め、身を以ってことの是非善悪を識別する力を養い、そこにはじめて人間尊重の花が開き、民主主義の結実した人間形成を願うものであったことは改めていうまでもない。

われわれは、今日の変遷する教育界にあって、本学教育の伝統を守りつつ、また新しい学問の道を開き、更に繁栄を続ける21世紀を引き継いで、21世紀の世界へ期待と要望に応え得る人材の養成に正しく強く前進することを肝に銘じなければならない。

名誉学長 故 山岡荘八先生 寄稿文より

昌平黌の歴史と目的:孔子の教えを礎に、日本人づくり・国づくり
東日本国際大学の基となったいわき短期大学は、昭和41年(1966年)4月1日開学、昌平黌精神によって設立されたものであり、この年代表が示す通り、徳川氏は将軍の侍読であった林道春(大学頭家の祖・羅山)の儒教を支持し、講学の地(5千余坪)を上野忍ヶ原に与えて私塾弘文館の建設を援助した。その後、尾張大納言義直は主命により弘文館に孔子像を祀る聖堂を建立、後に将軍家光は廟に参じ羅山に「尭典」を講ぜしめ、ついで釈菜の例を行わしめたのが、昌平黌の起源であり、これにより、徳川幕府は朱子学を道徳の基本として、幕府の精神的支柱とした。

明歴3年(1657年)江戸に大火があり、廟堂焼失、図書、祭器の諸庫も弘文堂も焼失したため、一時期これを改造し授業を行ったが、元禄3年(1690年)に五代将軍綱吉が再建を命じて、上野の土地が手狭となり神田湯島台に大成殿を建立。孔子の像を移させ、昌平坂学問所と唱えた。湯島聖堂、聖橋、昌平坂、昌平橋などはこのときからの呼称である。

昌平黌学問の貫く根本は、孔子の教えをもとにした朱子学であり、その呼称は、孔子誕生の地名、中国魯の昌平郷をとり、昌平黌としたものである。一方、昌平の意は、国運が盛んで泰平を指すと考えられ、八代将軍吉宗の時代(1716~1745年)には殊に厚い加護を受けてきた。

天明6年(1785年)昌平黌は再び火災に見舞われ聖堂もろとも孔子像を焼失し、寛政11年(1799年)の聖堂再建までの12年間は、木像がわりの孔子画像が祀られた。その画像はときの尾張大納言が同藩儒官明倫堂督学、細井徳民(平州)に命じて描かせたものであり、後、故あって江戸開城に功績のあった勝安房(海舟)の許に保存され、その後、本学の黌宝として引き継がれてきたという意義深いものであり、この画像、すなわち天明の昔、昌平黌の儒子たちに拝されてきたものであると伝えられる。

寛政4年(1792年)老中松平定信の寛政の学制振興策によって、異学を禁じ、大学頭には植村候から入って林家を継いだ烈が就任、尽力したため、昌平黌学業試問に応ずるもの三百数十人という激増ぶりを示し、かつ、諸藩士および処士の入学を許可したことから、幕府官立の学問所として学習院と並び威名を海内に振るうようになり、幕府文教の中心機関としての性格を一層明確にした。

斯くして昌平黌の目的は、日本人づくり、国づくりにつながり、その精神はやがてまた明治の教育に引き継がれ、昌平黌は維新後、明治2年(1869年)東京大学の前身となった。昌平黌幕末の塾頭は儒者佐藤一斎であり、その高弟であった田辺新之助は昌平黌精神を敬愛し、本学の前身である現開成学園を創立。さらに明治36年(1903年)昌平中学を設立し、昭和23年(1948年)学制改革により昌平高等学校となり、そのまま現法人に引き継がれ、昌平黌いわき短期大学が設立されたが、続いて平成7年4月には、東日本国際大学の開学となり、昌平黌建学以来の大精神が生かされている。

なお、湯島聖堂は今日も聖廟、孔子廟として存在する

元いわき短期大学教授(民族学)故 藤沢衛彦 記

沿革

沿革
  • 東日本国際大学
  • いわき短期大学
  • 東日本国際大学付属昌平中学校 東日本国際大学付属昌高等学校
  • 東日本国際大学付属昌高等学 通信制課程
  • いわき短期大学付属幼稚園